史跡巡り   
■史跡に関するお問い合わせ先

   嘉麻市教育委員会(文化財係)
    TEL:0948-57-3176
    FAX:0948-57-2618

 
皿屋敷跡   
皿屋敷跡
草木も眠るうし三時、亡霊が現れ、皿の数を「1枚、2枚、3枚・・・ 9枚」まで数えるという、『番町皿屋敷』の本家「皿屋敷跡」です。小さなお堂があって、その裏側にお菊が身を投げたと伝えられている直径60センチの井戸があります。井戸の上には、石碑の笠石のような大きな石で、ふたがしてあります。お菊の墓は永泉寺にあります。



 
舟入場跡   
舟入場跡
水神社鳥居の横に八反田船入場の記念碑があります。安政5年(1858年)4月に建立された碑文は133年の風雨にさらされほとんど読むことはできませんでしたが、碑文は次のように彫られていました。
「嘉麻川浅くして郡内の米穀三里の外へ陸運す。坂口嘉左衛門 上臼井大庄屋//松岡藤吉 馬見 大庄屋人馬の劬労をなげき、思を凝すもの久し。寛政七年始めて水力の足らざるを養ひ水槽の道を開く。其利澤も計なし。文政元年かさねて雑役を弛へ利澤を堆廣む。爾りし後、家栄え人々其業を楽しむ。今茲に碑文を刻み、里治を忘れさらしむ。
安政五年夏四月 吉田諠三誌
 東千手庄屋 田中七右衛門 小野谷庄屋 桑野新十郎」 
嘉麻郡の各村からの貢租米は馬で飯塚の蔵所まで運ばれ、それから川船によって黒崎に送られさらに大阪に輸送されていましたが、寛政七年(1795年)から、上三緒の一本木まで「川ひらた」で輸送されることになりました。



 
大平山永泉寺   
大平山永泉寺
1448年(文安5年)玉崗慶琳が開山した曹洞宗の古刹です。本尊は、如意輪観世音菩薩。高さ60センチの秘仏で拝観することはできません。秋月家の菩薩寺で累代の位牌があります。高階瓏仙禅師は、この寺の出身です。境内左側に、6体の地蔵右端に台石だけの墓があります。これが「お菊さんの墓」といわれています。



 
宝珠山長源寺   
宝珠山長源寺
1641年(安永18年)明順が開山し1651年(慶安4年)に建てられた浄土真宗本願寺派寺院。この寺の住職から学僧として名高い、8世宝雲・10世宝邁が出ています。当時、各地からその名を慕って修行僧が集まったといわれています。



 
稲築八幡宮   
稲築八幡宮
 神功皇后が応神天皇とともに朝鮮から、大分(だいぶ、筑穂町)、穂波、飯塚を通り、田川から都へお帰りになる途中、急に漆生にお立ち寄りになりました。村人たちは驚いて大急ぎでお迎えの用意をしましたが、座布団が間に合わず、ちょうど取り入れたばかりの稲を築き上げ、その上に座っていただきました。その時に座られた稲一束を、風景の勝れた山の頂上に七尺ばかりの穴を掘り、そこに埋めたという言い伝えがあります。
 それからは、その山を稲築山と呼び、稲築と号した社殿が建立されました。この社殿が稲築八幡宮のおこりであり、稲築(いなつき)の名のおこりといわれています。

 
沖出古墳   
沖出古墳 県の史跡に指定されている漆生(うるしお)の沖出古墳は、後円部に竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)をつくり、中に割竹形石棺(わりたけがたせっかん)をおさめた、長さ約68mもある古墳時代の初め頃に造られた前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)です。
 調査により表面には石がふかれ、壷(つぼ)、円筒、朝顔、家の形をした埴輪(はにわ)が立てられていたことがわかりました。なかでも「船」の絵が線刻された埴輪は大変珍しいもので九州で2例目です。
 石室はどろぼうに荒らされていましたが、大和政権(やまとせいけん)から与えられたと考えられている鍬型石(くわがたいし)、石釧(いしくしろ)、車輪石の3種類の石製腕飾りが、九州の古墳で初めてセットで見つかり、古代のこの地方と大和政権との結び付きが考えられています。
出土品

 
鎌田原弥生墳墓群   
鎌田原(かまだばる)弥生墳墓群は、県指定の史跡で、今からおよそ2,100年前につくられた弥生の墳丘墓です。中心にある木槨墓(もっかくぼ)は、日本国内最古で最大級のもので、朝鮮半島西北部の楽良文化の影響が認められます。主な出土品は、細形(ほぞがた)や中細形(なかぼそがた)の銅戈(どうか)、ヒスイの勾玉(まがたま)等で嘉穂地方南東部の最有力集団の墓地であったようです。その他、考古資料として原田遺跡の有文小銅鐸、内行花文鏡、単き文鏡や鎌田原弥生墳墓群から出土した銅戈や勾玉などがあります。その後、嘉穂地方では、飯塚市の立岩(たていわ)遺跡が中心となり王墓がつくられますが、その前段には、すでに、鎌田原のように小地域を単位とした有力者集団が登場していたことがわかります。

 
山上憶良歌碑   
山上憶良 いまから、1300年前に編纂された万葉集は、わが国が世界に誇る文学です。天皇から名もなき庶民に至るまで、実に全20巻4516首に及ぶ歌がおさめられています。
 筑豊にも、十数首の万葉歌が残されています。古代から交通の要衝であった筑豊。太宰府政庁と宇佐を結ぶ官道が貫き、瀬戸内海の水路で都ともダイレクトに結ばれていました。
 町内にも、嘉摩郡(かまのこおり)と呼ばれる役所が置かれ、都から役人が立ち寄ったとされて、場所は鴨生付近ではないかといわれています。
 その嘉摩郡に筑前国守(地方長官)として赴任したのが、万葉集の代表的な歌人の一人、山上憶良です。
 憶良といえば、「貧窮問答歌」を思い浮かべる人も多いでしょう。貴族でありながら、常に弱者の立場にたち、貧しきものたちの悲哀をうたい、彼らの声を芸術の域にまで高めた歌人。一方、身近なものたちへの愛の歌も、憶良の大きな特徴です。その代表作が有名な「子らを思う歌」。
▲山上憶良(660年〜733年)
 奈良時代にまとめられた「万葉集」の代表的な歌人の一人で和歌78首を残しています。また「類聚歌林」の著述もあります。神亀3(726)年、筑前の国守(地方長官)として赴任。人生や社会をするどく見つめたものの他に、惑い、愛、無常を歌った「嘉摩三部作」があります。
 しろかねも くがねも玉も 何せむに
 まされる宝 子にしかめやも(万葉集巻5)
歌碑
 金も銀も玉も、どうして子というすぐれた宝に及ぼうか、及びはしない…。子どもへの無上の愛に満ちた憶良らしい歌です。

 
石像三重塔   
石像三重塔
 平(ひら)の熊野神社の右手に、正平8(1353)年の年号がきざまれた「石造三重塔」と「阿弥陀如来石仏(あみだにょらいせきぶつ)」がまつられており、正平塔(しょうへいとう)・正平仏(しょうへいぶつ)と呼ばれています。これらは戦争に勝つようにと願って建てられたものです。正平とは南北朝時代の南朝の年号で、この辺りが南朝として活躍したことがうかがわれます。 また、石仏の隣には「十一面観音石仏(じゅういちめんかんのんせきぶつ)」があり、これらは県の有形文化財の考古資料に指定されています。

 
文学碑   
文学碑
プロレタリア詩人今村恒夫の文学碑です。碑面には[俺たちの手を見てくれ給え、ごつごつで無細工で荒れて頽れて・・・」の『手』という詩の前6行が刻まれています。

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